提言「自然科学的態度(唯物論的思考)の罪」 提言者 大阪隆夫=報告者
4ページに亘るレジメを準備し、それに沿って一応 順序立ててお話ししたつもりだったが、そのあとの議論に移るところで、司会の久保田さんから、何を言おうとしているのかよく分からないので、もう一度簡単 にまとめて話すようにと言われた時には、自分の「説明力」にひどく弱い点があることを知らされた。内容が現代人の一般常識を覆そうとするものだけに、余計 分かりやすくお話しする必要があったのだと思う。また、議論の中で出された中村さん、片山さん、三谷さんからのご質問、加藤先生、前田さん、池田さんのご 意見等も、誰もが思う疑問から出ているように思われたので、それらのご質問やご意見を踏まえる形で、私が何を提言したかったのかを分かりやすく記述するよ う心がけることで、ご報告に替えたい。
Ⅰ.人間軽視の思想
唯物論はご承知のように世界の根源を物質と捉え る考え方である。意識や精神をも物質から導き出されたものとみる。現代自然科学もこの唯物論のもとに成立している学問ということが出来る。自然科学が自然 現象の物質的側面を解明するとするのに異論はない。しかし私は、物質に貫いている原理や法則(自然科学的諸法則)によって生命や意識・精神の現象まで解明 出来るという考え方に問題があると考えている。生命や意識現象までも物を支配する法則で解明できるとすると、生命や意識の働きをどうしても因果論的、機械 論的に把握せざるを得ず、人間の自由意志をどうやって因果論や機械論という決定論で説明ができるのか、ということにもなり、唯物論的思考を進めていくと、 どうしてもこの世界の持つ精神性を無視し、人間というものの判断も誤ることになると考える。 自然科学は本来、その研究方法を、生命を持たな い対象について発展させてきたわけで、無機的な領域で実証されてきたやり方を、そのまま生命を持った自然界に適用できるとしているところに誤りの根本があ ると考える。私が恐れ憂慮するのは、ものを貫く法則により生命や精神までもが解明でき、また作り出すことさえ可能になるという考え方が人々に浸透すると、 生物のいのちも人間のいのちも、しょせんは物にすぎないということになり、いのちや人間存在の尊さが失われはしないかという点にある。もちろん前田さんの ご意見にあったように、唯物論者だからといって生命や精神の価値を低く考えるのではないとしても、今日のただでさえいのちを軽視する風潮を、唯物論的思考 (自然科学的思考態度)はいっそう助長することになるのは必然のことと思われるのである。 そ こで私は、その自然科学的思考の根底にある唯物論の誤りや愚かしさを、現代自然科学の到達点のうち、宇宙物理学および分子生物学の研究成果と、そこから打 ち出されている宇宙の存在及び生命の進化に対する仮説を取り上げ、その仮説がいかに非論理的かつ非科学的であり、現実離れしたものであるかを述べようとし た。以下のような参考文献を通して。 [参考文献] ○『精神と物質』(文藝春秋)利根川進(ノーベル生理学・医学賞1987年 分子免疫学) に対する立花隆のインタビュー(ボストンにて)をまとめたもの ・『精神と物質』の「序に変えて」で慶應義塾大学名誉教授渡辺 格が物質→生命→精神 ○『立花隆の無知蒙昧を衝く』(遺伝子問題から宇宙論まで)京都大学名誉教授・佐藤進 著(社会評論社) すなわち私の提言は次のようであった。 立花隆が『精神と物質』のなかで、 二 十世紀後半になって、分子生物学が飛躍的な発展をとげ、それまで生命現象として特別視されてい たさまざまの現象が物質レベルで次々と解明されるように なった。いずれは生命現象のすべてが、人間 の精神現象すら含めて、物質レベルの説明がつくことになるだろうという予測すらある。 と、あたかも生命現象や精神現象をも物質レベルで説明できるかのように述べているところや、 「生命はすべて物質」の考えに立つと、生命の誕生は物質進化の延長上に起きたできごとであり、生命 の進化は、DNAの複製過程で起きた偶然の事故の集積が もたらしたものとされる。その進化の頂点に 立つ人間の精神世界も、物質の「偶発的な事件の計算しきれないほどの 総和の産物」(J・モノー)と 解釈さ れる。…(中略)…サルがシェクスピアの作品を偶然にタイプで打ち出すのと同じぐらい、奇跡 的に希な確率で生起した事象の積み重ねの産物なのだ。(傍点 は筆者) と、「生命はすべて物質」という前提に立って、生命や人間の精神を、単なる偶然の、しかも奇跡的にしか生じない小さな確立の、計算しきれないほどの積み重ねからのみ生み出されたものだと見ているところ、さらには、 人 間は意味を求める動物である。だからどうしても人間存在に特別の意味を置きたがる。生命現象に 物理現象以上の意味を求めたがる。生命現象に神秘的な未知 の領域がたくさんある間は、そこに特別な 意味を求めることは容易だった。しかし、分子生物学が生命現象として一歩一歩解明していくごとに生 命の神秘は 消えていった。やがて、すべての生命現象が物理現象に還元され、人間存在には特別の意味 は何もないのだということが証明されてしまうのかもしれない。 と 述べ、彼が生命や意識現象を無意味な物理現象以上のものでないと断定的に捉えていることを知って、私は驚きを禁じ得なかったと述べた。こうした立花の考え 方は、中村さんが私に内容を確認するために発言されたこと、すなわち「立花隆だけが無知蒙昧だから誤った考え方をしているということではないのか」という ことではなく、これは今日の圧倒的に多くの科学者及び知識人が唯物論的思考のゆえに陥っている考え方なのである。 こ こに表されているように、有意味の現象をすべて無意味な物理現象に還元していこうとする思想こそが罪だと私は捉えている。正に還元主義の典型をここに見る 思いがする。還元主義とは恋愛感情もしょせん性衝動から生じるものにすぎないとするフロイドの見方や、人類の文化現象、すなわち哲学や文学、芸術や学問 も、すべては生産関係など下部構造の反映にすぎないとするマルクス主義的な見方や、意識(心)の働きは脳細胞の運動に過ぎないとする見方である。価値の高 いものをそれより一段低い価値原理に引き下げて解釈しようとする考え方、それが還元主義である。有意味な精神的現象まで、無意味な物理現象に還元しようと する唯物思想は、人間の尊厳性の根拠を奪いかねないと恐れるのである。
Ⅱ.自然科学(宇宙物理学など)が図らずも示す人間の尊厳性
そ こで私は、自然科学が明らかにしている研究成果を今少し具体的に立ち入って吟味してみようとした。すると図らずも彼らの主張とは逆の事態、逆の実状にある ことが見えてきたのである。そこで、そのことを、主に『精神と物質』や『立花隆の無知蒙昧を衝く』に述べられている分子生物学や宇宙物理学の今日的到達点 から説明しようとした。 この個所は本提言の核心部分なのでやや詳しく述べることにしたい。『立花隆の無知蒙昧を衝く』の著者である振動制御や科学技術論等の研究家で京都大学名誉教授・佐藤進氏は、『精神と物質』から立花隆の見解を引用し、 この世界に生起する現象はすべてエネルギーの流れであり、その流れは無秩序さの方向に向かってい る(エントロピーの増大の法則)。それにもかかわら ず、この地球環境において、宇宙の基本法則である エントロピー増大の法則に反する生命進化のプロセスが、なぜ何十億年にもわたってありえたのかとい え ば、これが生命史の最も深い謎であるという。高度に発達した現代物理・科学においても、我々が住 んでいる地球環境が秩序ある世界であり、我々の肉体が高 度に秩序立てられた生命ある存在であること が最も基本的にして、最も分からない謎であるという。 この見解は自然科学者が所有する共通認識で、ここまでは立花隆も間違ってはいないと述べた上で、しかし彼がその謎の解釈を「偶然の為せる技」と言い切ってしまっているところに大きな疑問を呈せざるを得ないとして、佐藤教授は以下のような記述を続けている。 そもそも宇宙の生成確率について、数理物学の第一人者・オックスフォード大学教授のR.ペンロー ズは、私たちの宇宙ができる確率を計算して十の百二十 三乗分の一という数字をえている。これはどん な想像力をかきたてても理解しがたい極微の値である。ちなみにビックバンの起こった確率は、ペンロ ーズに よれば、十の六十乗分の一であり、爆発力が十の六十乗分の一だけ違っていても、現在の宇宙は 存在しなかっただろうという。そして、地球上の生命体の場合 は、十の千乗分の一の確率という途方も ない確率で発生したことになるという。しかしこれが現実に存在するということからいえば、ビックバ ンの発生確率 をはじめとする想像を絶するおびただしい数の奇蹟の連続が可能ならしめたことになる。 私は、ここに掲げられている天文学的数字を分母に持つ確率がどれぐらい小さいものであるかを少しでも身近に知ってもらおうとして、白板に幾つかの数字を書いたのだった。すなわち、
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1010
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=100億
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1015
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=1000兆
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であるから ビックバンの起こった確立は
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10 60
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1015 1015 1015 1015
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つまりビックバンの起きた確率は、千兆分の一の、 そのまた千兆分の一の、そのまた千兆分の一の、そのまた千兆分の一ということになる。こうしてみると、これがどのくらい小さな確率であるかがお分かり頂け るのではないかと思ったのである。そして、「もし十の六乗分の一違っていたらビックバンは起こりえなかったことになる。」と教授は述べ、ビックバンの後も 今日のような宇宙が出来上がるにはおびただしい条件がそろう必要があり、その条件が成立する確率はどれも極めて小さな確率でしか考えられないという。例え ば宇宙生成過程において、「重力」と「弱い相互作用の力」というのがあって、もし弱い相互作用の力が今よりほんの少しでも強かったならば、水素とヘリウム の存在量の比が適切な値にならなくなり、宇宙は100%水素だけの(軽い元素だけの)世界になっていたであろうという。重い元素を作るには重力と弱い相互 作用が絶妙なバランスにならなければならない。このように、重い元素を作る仕組みは、綱渡りのように危ういバランスの上に成り立っているという。 これ以外にもおびただしい条件を考慮しなければならないが、それらを考慮して計算した結果、宇宙論学者R.ペンローズは宇宙の出来る確率として
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10123 という考えられないような小さな確率を導き出している。 佐藤教授はこの数字について次のように述べてい る。「この値が正確なのかどうか、について私は議論したいとは思わない。数値が多少変化しようが、ことはどうってないことであって、要するに信じがたい (小さな確率を示す)数字だ、ということで満足すればよいからである」と。 まさに現代物理学の見解では、今日の宇宙の成立は奇蹟の連続の結果生じたとしか言いようのない、考えられないような小さな奇跡的偶然によってのみもたらされたものなのだ。 地球の生命誕生の確率についてもペンローズは…
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と いう数字をあげている。現代の物理科学の先端に立つ人はみな、この確率を承知しているのだ。(宇宙論学者R.ペンローズ…ケンブリッジ大学で数学を学ぶ。 S.ホーキンズの先輩。英国立協会会員で、現在は、数理物理学の第一人者として、量子力学の新しい発展を試み、オックスフォード大学教授として活躍してい る。) そこで人間の意識・精神の発生となると、一体どのような小さな確率で示されることになるのだろうか。 以 上ように、宇宙のエントロピーの原則に逆行し自己組織化原理が働いている地球環境と生物の存在、さらには高次の精神世界を有する人間存在の事実を、物理・ 科学は、想像を絶する小さな確率、無数の奇跡的偶然の集積の結果生み出されたものと解釈していることを述べた上で、佐藤教授はそれに異を唱え、こうして現 実にある宇宙や地球生命の事実を奇跡的偶然に帰し、すべては物理科学の法則によってのみ生じうると断言する立花隆らの見解を、あまりに無謀であるとして厳 しく断罪しているのである。さらに佐藤教授は、ハイゼルベルグが明らかにした不確定性の原理に言及し、プランク定数※1に ついて述べている。「プランク定数以下の小さな時間・空間では物理法則が成り立たない。したがって、宇宙の誕生をいくら遡っても、そのプランク以前を考察 すことができない。つまり、プランクの時間以前は、私たちにとって理解や認識を越えた超越である」。そして、こうした物理学的事実を立花隆が無視して、自 然の摂理、あるいは「超越した次元」をまるで考慮しない立花の無知を指摘しているのである。
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※1プランク定数
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プランク時間
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1043 秒
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プランクの長さ
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1035 メートル
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さらに佐藤教授は、 「たまたま」「偶然」という現象は、本来科学の対象にならないものであって、科学となりうる事象 は、再現でき、実験によって検証しうるものでなければならないものである とも述べていて、この観点からも先の立花隆のような結論に導くのは間違っていると指摘している。私もまったく同感である。仮説の段階に止まるものとしても、「物質世界の偶発事故の集積」および「途方もない小さい偶然の連続的積み重ね」によってしか生命の存在や進化の頂点に立つ人間存在の必然性を説明しえないのであれば、すでにこの仮説においては科学の立場を失っていることになろう。 そもそも冷静に考えれば、天文学的数字を分数の 分母に置かなければならないほど希にしか生じない奇跡的偶然の、その計算しきれないほどの連続的重なりなどということは起こりえようがない、そう考えるの が常識であり、そう考えるのがむしろ科学的思考というものではなかろうか。いや、純粋に自然科学の立場に立って考えれば、生命の存在や人間の精神世界の存 在は、物理現象を超えた他の極めて絶大かつ精妙な力(作用力)を想定せずしては不可能であるということになろう。今日の自然科学が導き出した仮説は、その ことを無意識のうちに告げているとも受け取れるのである。少なくとも先の宇宙物理学者や立花隆の見解は、宇宙や地球上の生物および私たち人間の存在そのも のが、まさに自然科学の法則からは生じようのない、恐ろしいほどの奇蹟的現実の最中に生きていることを示していることだけは確かである。池田さんがNHK の番組「ふしぎ大自然」を見るたびに、そこに繰り広げられる世界がとても不思議に満ちていると感じられるとのこと。正に自然は物理法則などの働きに尽きる ものではなく、私たちにの五感では感知できない叡智が満ち満ちていると私も思う。その叡智がどこから来るのか、別の次元、別の領域の存在がどのようなもの であるのか、現在の私たちには明確に知りえないとしても、意味や目的を内在させた精神的領域を包み込み、私たちの現在の思考レベルではお呼びも付かない質の創造力・叡智を備えた大いなる何者か(あるいは何らかのパワー、サムシング・グレート)であるに違いない。 片 山さんの「提言者が一番言いたいのは最後の部分、すなわちサムシング・グレートの存在についてではないのか。しかしそれをどうやって知ることが出来るの か」とのご質問は、まことに的を射たものと思われたが、本提言はそれを直接の対象にしたものでないとお答えすべきであった。じつはそれに言及するためにこ そ、今回の唯物論の本質についての提言が必要であった。サムシング・グレートに言及するために、本提言はどうしても通過しなければならない最初の関門と位 置づけていたからである。
Ⅲ.「いのちの尊さ」について
ところで、いのちの尊さについての議論も行き交った。私は文部省がことある毎に叫び、学校現場で実施されている「いのちの教育」なるものには疑問を持っていると述べた。それは次のような理由からである。 言うまでもなく植物にもいのちがあるし、動物に もいのちがある。その場合、まずいのちとはどういう現象を指すかということである。私はシュタイナー教育思想を研究し共鳴できる部分が多いので、シュタイ ナーの論拠に添って私が納得の出来る範囲でいのちについて述べると、いのちの働きとは呼吸を行い、体液を循環させ、生殖の営みを行い、栄養の摂取や排泄の 働きなどを生命活動と捉えていて、自然科学の諸法則が支配する物質原理とはまったく異なるものと考えている。たとえば、どんなにロボットを精巧な機械とし て作っても、ロボット自らがロボットの子どもを生み出すことは不可能だ。人類は未だ生命の原理をまったく見出していない。しかし、生命の働きが如何に驚嘆 すべき働きであるかは次第に認識してきている。DNAや免疫の驚異的仕組みなどによって。しかし、どうしてこのような複雑で見事な働きが生み出されたかは 見当も付いていない。植物は、まさにその驚異的生命の働きを宿しているのである。 さてここで注目を要する点は、動物も植物同様生命の働きを宿しているが、動物は植物と大きな違いがある。それは意識の働きとそれを土台にした心・魂の働きがあることだ。「一寸の虫も五分の魂」というあの魂である。 久保田さんから植物も意識があるという研究者も いると具体的氏名まで挙げられたが、心・魂の最もプリミティブなものは、好き嫌い、共感反感の働きである。動物は、好物の食べ物や可愛がってくれる人や仲 間には好感を抱き近づいていく。うまくない物や危険を感じるものには反感を覚え、離れたり逃げだしたりする。こうした好き嫌い・共感反感を核に、下等生物 の素朴なものから高等動物になるほど多様な感情を持ち合わせるようになっている。だから池田さんが言われたように、猫も人間の心が通じる場合があるのは確 かだといえる。動物がこのような内的世界、すなわち外界の刺激に反応し動作を伴わせるような内側からの能動的意識を持っているのに対し、植物はそのような 意味での内的世界はもっていないのは明らかだ。この決定的違いに区別を立てず、植物も動物も意識を持つものとして変わらないと見る見方は相当無理がある (または実際的見方ではない)、と私には思えるのである。つまり動物は植物にもある生命の原理と、植物にはない意識(心・魂)の原理の両者を宿す存在とい うことが出来る。 さ て人間についてであるが、人間はまず植物にもあるいのちを持っている。更に動物と同じ心(魂)を宿している。ただ動物よりもはるかに複雑で豊かなレベルの 魂を持っているということが出来る。豊かなという意味は、上は隣人のために献身的な働きをし、いのちまでも犠牲にする振る舞いをするなど崇高なレベルのも のから、下は動物にも見られないような、自分の欲のために人を殺すなどといったおぞましいレベルのものまであるという意味である。 しかし動物は、悪を為すことが出来ない。人間のみ が善も為し悪も為す。動物が環境に拘束され本能的衝動的に生きざるを得ないのに対して、人間は環境及び生存条件までも対象化し変化させて生きる自由を有し ている。人間だけに意志決定の自由がある。しかもものごころ付くころより自分が行った経験や体験を記憶していて、そのすべてを自分のものとして担う意識、 自己意識(私の意識)を持っている。だから人間の行為には責任が問われるのである。動物は自分の行為を担える自己意識(=私の意識)を持ち合わせていな い。また動物には自由意志はないから、どんな場合も彼らの行為に責任は問えない。人間の場合も泥酔や精神耗弱者の行為には責任が問えないのと同じである。 泥酔している状態では自己意識(自我=私)が成立していないからである。もし人間が自己意識を有することにおいて動物と区別しないとしたら、それは植物と 動物の区別をしないのと同じで、人間固有の存在の特質(あるいは本質)を見誤ってしまうことになろう。図でそれぞれのレベルの存在のあり方、構成要素の違 いを表してみると、 物質 鉱物+物理的法則 植物 物質+生命原理 動物 物質+生命原理+意識(心=魂)原理 人間 物質+生命原理+意識(心=魂)原理+自己意識(私の意識)の働き となる。 「い のちの尊さ」の教育においてよく行われているのは、加藤先生が話されたように、人間として生きているのは数億の精子の一つが受精した結果であり、ものすご い競争を戦い抜いた結果だ。それを知ればどれほどここに生きているいのちが尊いかが分かる。また自分のいのちは祖先から伝えられてきて存在していること、 その途中の一人でも欠ければ自分はなかったのであること。そのことから言っても自分のいのちが如何に尊いかを知らなければならないと。(ただし留意すべき 点は、このことはひとり人間だけに言われることではない。生物のすべてに当てはまることだということである。) 確かに、その意味でいのちは尊い。しかしその意 味の尊さが分からなかったから、人間は他人を殺害したり、自死を遂げるのであろうか。そうとばかりは言えない。私が思うに、人を傷つけたり殺したりするの は犯行者の欲望や憎悪の為せる技ではなかろうか。自死は前途への悲観ないしは絶望による。佐世保の女児が校内で友人を殺害に及んだのも憎しみや怒りからで あった。神戸の淳君殺しのA少年にしても、主として母親との関係で家庭での居場所を無くし、心のストレスの爆発的発散の結果であったと言われている。 意識(心=魂)には物質を貫いている原理や生命 の原理とはまるで異なる次元の原理が働いているのである。そこに注目しなければこうした問題の真相が見えてこない。共感反感、様々な欲望や衝動、憎愛、憧 れなどが織りなす世界、それが心・魂の世界である。(そこには、やがて人間の意識の進化・成長によって気づくことになるはずの普遍的な原理・法則が働いて いるとシュタイナーは述べているが。)心・魂のわだかまりの問題が原因であることに気づき、そこに適切な(原理・法則に則った)教育の手をさしのべること を抜きにしては、如何にいのちの大切さを説いても今ひとつピントが合わないことになろう。いのちの尊さの教育はそれ自体大切であり、力を入れて行かなけれ ばならないことである。しかし、児童・生徒が事件を起こすたびに「いのちの教育」が声高に叫ばれていることに、私はいつも何か足りないものを感じてきた。 そうなるのは今日の人間の見方、唯物論的人間観の欠落部分から生じていると思えてならないのである。 シュ タイナーによれば、「自己=私」の意識の背後には、人間をより人間らしく導く高貴な働き(精神世界)が存在しているという。そのことについては安直に軽々 に語るべきではないと思っている。極めて大事なことであるので、誤解が生じるようであってはならないからである。それは今後、機会があれば順序を踏んで語 られるべきことであると思っている。






