寄稿文の案内

大阪隆夫氏の寄稿文:生き方を考える探究の会


死の恐怖から解放されて、死ぬ直前まで希望を持って生きる構え方

 

1.人は皆、見えない牢獄につながれた死刑因



死に至る運命こそが、最大の暴力



連日のように殺人事件が報じられている。殺人の動機や方法がこれまでにない意外性のあるものも多くなっている。たとえば、青年が自分の家族を皆殺 しにしょうとする事件がそれだ。青年と付き合っていた少女も家族殺害を企てていた。前代未聞の事件と言える。そこには、それほどの大罪を犯すそれなりの理 由があったのであろうか。恨みか、憎しみか、妬みか、それとも絶望か、しかしそれらを遙かに凌ぐ理由があるのでなければ、家族皆殺しを実行するなど到底理 解しがたいことである。しかしそれほどの理由もなく大罪を犯していると思われるところに、われわれをとてつもなく不安な気分にさせる原因がある。パレスチ ナやイラクに頻発している自爆テロがわれわれに得体の知れない不安をかき立てるのも、常人の理解を超えているからである。

このように、今までには考えられない事件、あるいは、あってはならない殺人事件や殺戮が起きるたびに、われわれはどうしても犯行の動機や理由を知 りたくなる。犯行の必然性が分からなければ安心できないからである。犯行の真の理由や原因が分かれば、それを避けるために知恵を働かせ、対応策を講じるこ ともできるからである。われわれがニュースやワイドショーに見入るのは、その原因さがしということもあるのである。



そもそもわれわれは、他のことはどうであれ、こと自分の命に関わることには最大の関心を持たずにはいられない。理由が納得できない犯罪は、まさにその観点から気にせざるを得ないのだ。

同じことは、病気についてもいえる。自分の命の喪失にかかわって、脳溢血・ガン・心筋梗塞といった三大病をひどく恐れる。死を招き寄せる確率が高いからである。

このように、人はひたすらに死を恐れている。死ほど怖いものはないからである。にもかかわらず、改めて言うまでもないことであるが、死は万人に例 外なく訪れるということである。どんなに嫌っても、どんなにあがいても、必ず一人ひとりに間違いなく死は確実にやってくる。まことに残酷な話ではあるが、 こうしている今も刻々と

死は近づいている。そう考えると、人は皆、あたかも目には見えない牢獄につながれた死刑囚のようである。死刑囚との違いは、ただ死に至までの期間に 自由が認められているに過ぎない。自分の存在を無に帰せしめる死、この誰もが逃れられない死という運命(宿命)ほど大きな暴力はないといえる。



ところが現実には、どうしたことか人は自分の死について、かの三大病に見舞われでもしない限りあまり深刻に考えようとはしない。日常の生活意識にはほとんど「我が身の死」の観念はない。自分が死に至る身であることを本気で受け止めていないかのようである。



そんなことはないと言うかも知れない。「死」については考えているし、いつかは死を迎えなければならないことは分かっている。いずれ死に至ること は宿命とあきらめ、「覚悟はできている」と。おそらくその通りであろう。それにもかかわらず私が指摘したい点は、ほとんどの人に共通するのが、その死が自 分に訪れるのは「当分先のこと」と考えているところにある。七十歳の人は八十歳まで、八十歳の人はあと五年ぐらいは生きられるだろうと。あと半年、いや 三ヶ月の命かも知れないとは、医者に宣告されない限り誰も考えようとしないのである。 ともあれ、大半の人は当分は死なないという前提のもとに生き、死に ついて身構えるのはそれに直面してからでよいとでも考えているようだ。病気でなくても、いつテロに襲われ、いつ大勢の命を飲み込む大地震がやってこないと も限らないのに。



『死ぬまでにしたい十のこと』という映画が話題を呼んだ。あと二、三ヶ月の命と宣告されて、その二ヶ月に十のことをしたいというのである。自分 だったら何をするだろうか、と考えさせられる。しかし、普通は死が二ヶ月後に迫っているとは考えてはいない。だから、いつ死期が迫っても悔いのないような 生き方、どうしてもやって

おきたいものから優先順位を付けて精力的にこなしていくような生き方や構えができているかといえば、できてはいないのである。



人は無意識のうちに自己の死を直視することから逃げて、死を意識下に押し込んでいる。この、いつ訪れるかも知れない死に至る宿命をシビアーに見つめることを回避させているものは何か。それは他でもない、あの「死の恐怖」そのものにあると私は考える。



2.死に直面した著名人の場合



いずれ死に至ることは運命(宿命)とあきらめ、「覚悟はできている」というのは常人の思いであろう。けれども、本当の意味で、「覚悟はできてい る」のであろうか。次に挙げる著名な三氏の例は、死に直面するという事態がいかに深刻であるかを物語っている。人は果たして、そのような死の実相を見据え た上で「覚悟ができている」と言えるのであろうか。その点を掘り下げてみることにしたい。



世界の文豪として知られるトルストイが、五十歳近くになって気づいたことは、人間の死が、ともすると今日や明日にもやってくるかも知れないということであった。それなのに、どうして人は安楽にいきていられるのかと呆れる。彼は『懺悔』のなかに次のように述べている。



「こんなことがよくも当初において理解できずにいられたものだ、とただそれに呆れるばかりだった。こんなことはいずれもとうの昔から誰でも分かり きった話ではないか。今日明日にも病気か死が愛する人たちや私の上に訪れれば(すでにいままでもあったことだが)死臭と蛆虫のほか何ひとつ残らなくなって しまうのだ。私の仕事などは、たとえどんなものであろうとすべては早晩忘れ去られてしまうだろうし、私もなくなってしまうのだ。とすれば、何をあくせくす ることがあろう?よくも人間はこれが眼に入らずに生きられるものだ。――これこそまさに驚くべきことではないか!生に酔いしれている間だけは生きて行けよ う。が、さめてみれば、これらの一切が――ごまかしであり、それも愚かしいごまかしであることに気づかぬわけにはいかないはずだ!」



彼は輝かしい作家活動のさなかにあったが、確実な死という未来を凝視したとき、彼の未来から光が失せたのであった。 しかし私は、いつか死に見舞 われるとしても、この世で今為すべきこと、できることに専念することが、トルストイが述べているような「愚かしいごまかし」であるとは思えない。しかし自 己の死が自己に関わるすべての事柄を失わせるものであり、それが今日明日にも迫ってくるとしたら、これまでの安穏な生き方を続ける気力は失われるであろう という点では、トルストイと思いを同じくする。人がトルストイのように仕事も手に付かなくなることがないのは、ただ単に、死はずっと先のことと思っている からに過ぎないのだ。 



トルストイが死を見つめた途端に気づいたのは、文学の創造的活動も含めて「あくせく生きる」ことの虚しさであった。が、死をトルストイよりもさらに 鋭く深いレベルで見つめた(と私は思うのだが)岸本英夫が抱いた大問題は、トルストイの単なる自棄的な嘆きとは異なる、死後の自己意識の行方であった。



東大・宗教学教授・岸本英夫は、ガンと十年闘い、死と真っ正面から向き合った記録を残している。『死を見つめる心』がそれだ。死は肉体的苦痛との 戦いを強いる。愛するものとの離別の苦しみをもたらす。それらは紛れもなく辛く苦しいことであるが、それにもまして大問題になるのは「死後はどうなるか」 ということであった、と以下のように述べている。



「生命を断ち切られるということは、もっとくわしく考えると、どういうことであるか。それが、人間の肉体的生命の終わりであることは、たしかであ る。呼吸はとまり、心臓は停止する。(中略)しかし、生命体としての人間を構成しているものは、単に、生理的な肉体だけではない。すくなくとも、生きてい る間は、人間は、精神的な個と考えるのが常識である。生きている現在においては、自分というものの意識がある。『この自分』というものがあるのである。そ こで問題は、『この自分』は、死後どうなるかという点に集中してくる。これが人間にとっての大問題となる。」(傍点部は筆者)



岸本氏が人間の構成要素として生理的肉体の他に「精神的な個」、すなわち「この自分」の意識、言い換えれば「私」という意識があることを強調して いる。肉体の在り様とは全く異質の在り方をしている意識(このことを分からない人は多い)、しかも人間の意識は動物と違って、物心つく頃より今日までのす べての経験や思考を己のものとして担う「私」としての意識である。岸本氏の言う「この自分」というのがまさにそれであって、それは肉体が死滅することによ り、肉体との関わりは断たれるとしても、肉体を構成する原理とは異なる「この自分」の意識まで肉体とともに消滅するとは考えにくく、だとすれば肉体死滅後 の自分の意識はどうなっていくのか、これが岸本氏にとって大問題となったと思われる。



そもそも意識現象が物理現象でないことは言うを待たない。物理現象からは、愛の意識や、美意識や、良い悪いの価値判断は生み出されることはない。 科学は数と量を扱う世界であり、感動したり愛憎の念が行き交う質や情念の世界とは次元を異にしている。にもかかわらず、今日「科学的」立場に立つと自負す る人々の多くが、精神現象もいずれは自然科学的法則から把握し説明しうるものになると考えている。人間の心の動きや哲学思想や文学表現などの思考内容も、 必然性の支配する自然科学の法則から解明できるという立場である。

このような馬鹿げた立場・見解は、とても科学的・論理的とも言えず、科学の範疇を超えた推測であり、科学信仰(科学によって解き明かされない現象 はないとする、一種の信仰)に過ぎないのである。しかし残念ながら多くの科学者がそのことに気づいていない。それが現状である。そうした「科学的」見解を 愚かしく思っている私には、岸本英夫の「この自分」の存在を巡っての大問題を否定することなど、とうていできないことである。



江藤淳が六十六年の生涯に自ら終止符を打ったのは四年半ほど前のことである。「一卵性夫妻」とよばれるほどの仲の良い夫妻であったので、病に倒れ た慶子夫人を決して一人にはしない、最後まで支えたい、とそれが江藤の「生きる目標」だった。婦人が亡くなり、生きる目標がなくなって残ったのは、死を待 つだけの無意味な時間だった。



スイスの哲学者ヒルティは言っている。「愛の幸福にすっかり身を委ねる人の心情が深く、かつ純粋であればあるほど、その人は確実に、そして完全に、不幸になるであろう。死によってこの苦い経験からのがれるのでないかぎり。」(ヒルティ著『幸福論』より)



愛が純粋で深くあればあるほど、その愛の対象を失った者は、その後を生きることに耐え得ないのだ。こういう事実を目の当たりにすると、伴侶をこれ ほどの純粋さと深さで愛しているとは言えない者にとっては、伴侶を失っても自らを破壊する不幸からは免れているとも言えるが…。



このような愛を巡る苦悩ですら、先の科学信奉者にとっては、いずれ科学的に説明の付く、したがって必然性の世界(つまり自然科学の諸法則)から解き明かせるものなのであろう。



私にはこのような科学主義者の説が非論理的であり、対象の本質的違いを見分けられない愚劣きわまりないものとしか映らない。しかし、この唯物主義 が大勢を占めているのが今日という時代であるから始末が悪い。心の世紀とも言われながら、このように心や精神の本質が誤って把握されているところに、真の 意味での人間尊重の精神や豊かな心を育たなくしている思想的背景があると、私は思っている。



話を元に戻そう。人によって程度差はあるにしても、愛する者との離別は大きな苦悩をもたらすのは確かである。 



3.死を恐怖する三つの理由



ところで、私たちが死を恐怖する理由として、岸本英夫が述べているところから考えると次の三つを挙げることができる。



ア、病魔がもたらす肉体的苦痛・激痛

イ、愛するものとの離別の辛さ

ウ、自己存在の消滅



江藤の場合はイの愛する者との離別苦の深刻さがこれ以上ないことを物語っている。彼にとって肉体的苦痛は二の次であった。しかし普通の人にとって も、伴侶のもとを去ることを思うとき言い知れない寂しさに襲われるはずだ。それが第一で、次に子どもや孫、兄弟との別れが続き、そして友人知人が続こう。 そうした身近な者に二度と会えないことを思うとき、この現実を苦痛なしに受け止めることはできないであろう。しかし江藤ほどには深刻に思わない人もいるの ではないか。その人たちにとってはむしろ、アの肉体的苦痛の方が深刻であるかも知れない。肉体が骨皮となり、衰弱しきり、食も受け付けなくなり、身体の節 々が痛み、あるいは間断なく激痛に見舞われる事態、それを恐れるのだ。



しかし恐怖は、その人たちにとってはそこまでなのかも知れない。おそらくこの人たちにとっては、少なくとも表面意識では、ウの、「この私」の消滅 については当然のことと受け止められていて、苦悩の中には入ってこないのかもしれない。しかし実際には、そうではないようである。少なくとも岸本英夫の場 合は、いよいよ死期が近づいて来ると、「この私」の、肉体死滅後の行方の方が抜き差しならない大問題になっていった。私が思うに、脳や神経系が病に冒され でもしないかぎりは、おそらく誰にとっても、この問題も肉体的苦痛に勝るとも劣らない深刻な問題となるにちがいないと。



4.死を乗り越えさせる事実と思想



精神的個体としての「私」は、物質的「からだ」とイコールではない。ここのところは実に大切な点である。このところを誰にも理解のいくように徹底 的かつ丁寧に議論の為されることが必要であり、哲学者や特に神経系の研究者や脳生理学者の積極的なかかわりが求められるところである。しかしこれまでの学 者の議論は、事実に即して厳密に行われているとは言い難い。というのも、現実には肉体から離れた精神的個体に関わる現象が幾多も報告されているにも関わら ず、例えば臨死体験の事例報告はその一つであり、子どもが持つ前生の記憶や胎内記憶などもその一つであるが、それらをまともに取り上げようとはしていない からである。



だが一方では、全体から見れば少数の学者にしても、それらの報告に真摯に向き合い懸命な研究が進められているのも確かである。研究の帰結として、報告事例が疑いようもない事実でるとの結論に至った学者が相当数存在する。



しかし残念なことに、唯物主義・科学主義に陥っている人たちは、そうした研究結果に耳を貸さないし、頭から考えられないことと決め込んでしまう。 その上、科学とは領域違いの現象であるのに気づかないで無理な「科学的」解釈を施す学者がどれほどいることか。彼らは、事例に対して誠実に向かおうとせ ず、本当の意味の科学的姿勢及び科学的思考を欠いている。思いこみが強く先行しているのである。



臨死体験



そこで、ここでは臨死体験に触れてみたい。臨死体験については、その信憑性を巡って二つの立場(脳内幻想説と実体験説)の議論があるのはよく知られているところである。

ここでは、この議論の詳細を紹介するつもりはないが、本会の元会員だった石井登さんが、一昨年の十一月頃『臨死体験研究読本』を出版しいる。それ には両者の立場の説を紹介しつつ、どう考えても脳内幻想説には無理があること、すなわち臨死体験の報告内容が幻想説からは大きくはみ出ていて、とても科学 的論述として耐ええないものであること、臨死体験が実体験でなければ辻褄が合わない点を、あまたの報告内容と双方の諸学者の論述を踏まえつつ、誠実に詳細 に勘所を逃さずに論じている。その論述内容は読者をして無理なく納得せしめる労作であり、この問題に関心を寄せている方々にはぜひぜひお勧めしたい書であ る。



臨死体験が事実であり、『臨死体験研究読本』に詳述されているように、体験内容の常識を越えた意味深さ奥深さを視野に入れるとき、人格としての「こ の精神的私」は、肉体消滅の後も、まったき意識をもって存続するだけでなく、「この私」の意識は、しばらくは肉体的執着から自由になって、安らいだ親和的 な気分のもとに他の精神的実体にも導かれるようである。その先の歩みについては臨死体験からは知る由もないが。



前生を記憶している人の存在



また、次の事例も、肉体消滅後の意識存在をわれわれに容易には否定しえなくするものである。

『誕生を記憶する子どもたち』(デービィッド・チェンバレン著。北米出世前・周産期心理学協会副会長。ボストン大学より学位受ける。アメリカ臨床催 眠学会、国際催眠学会に所属。春秋社)には、普通の常識からはほど遠い驚愕的な研究内容が報告されている。表紙には、書名の下に次のような記述がある。



患者たちは自分の出生時の出来事をこまごまと 語った。そこには赤ん坊としての感情や感想も含 まれていた。  「赤ん坊」の思考は思いもよらないほど成熟し ており、みな、自分なりの個性豊かな話をした。

親を愛し気づかっていた。

人格や性格に未発達な幼稚な感じは微塵もなく、年齢を超越して最初からそのままのかたちで そなわっているように見えた。



周産期心理学というものを知らなかったが、読み進めていくうち、著者がどれほど子どもを思い、善意に満ちた真剣な研究者であるかが伝わってきた。 出生時に赤ちゃんは意識を持ち、しかも大人が抱いている意識と変わらないという(表現が出来ないだけだ。)そうなれば赤ん坊は既に一人前の魂を宿している ということになる。ゼロからのスタートではないのである。またこの書は、「『暴力なき出産』の著者フレデリック・ルボワイエ、アシュレー・モンタギュー博 士、『胎児は見ている』の著者トマス・バーニー博士を始め、世界の心理学者医学研究者から賛辞を浴びている。」と表紙裏に記されている。



モンタギュー博士の『胎児は見ている』は、現東京大学名誉教授で国際小児学会会長の小林登博士の訳で、平成十一年に既に六十五刷発行となっている。その中の文章の一部には次のようなものがある。



…子どもというものは生後二、三年しなければ、 深く感じたり体験したりすることはできないとい うのが、当時の神経学や生物学の通説であり、 そ のためフロイトも、二、三歳にならなければ性格 は形成されないものだと考えていた…  しかし、1960年代の中ごろには、医療技術が飛 躍的に進 歩したおかげで子宮内にいる胎児を実際 に研究して調べることが可能になった。…そして、 研究が次のような学者に受け継がれ発展してきた。 …神経学者のドミニック・ パーパラ(アルバート ・アインシュタイン医科大学)、リチャード・D ・アダムズ(ハーバード大学)、聴覚生理学者の エリック・ベェーデンベルク(ス ウェーデン、カ ロリンスカ研究所)、アルバート・リリー(ニュ ージーランド、オークランドの国立産院大学院) およびその妻のマーガレット・リリーら がいる。

これらの人たちの研究によって、ようやく、こ れまで欠けていた最も重要なもの、つまり胎児は “聞き”“理解し”“感じる”存在であるという 明確な証拠が提出されたのである。



…胎児は母親の感情を素早く読みとっている



…胎児が記憶し、その記憶を留めておくことが できるということだけは疑いない。



チェンバレンが述べているように、出産の瞬間に見聞きし感じたことを、後に調べた事実と合致したように語れること、そしてそのときの感情が成熟した 大人と変わらぬものであったという事実は、いったい何を物語るものであろうか。チェンバレンほど深く研究してはいず、そしてチェンバレンの研究結果にも抵 抗をもっていると思われる東大名誉教授でさえ、彼が訳出した『胎児は見ている』には、コメントの部分で、「胎児は理解することができるのであり、このこと は胎児の時にすでに心をもっており…」とあり、教授もそのことを承認しているのだ。



そうなると、人間がこの世に生まれたときゼロからスタートするのではないことになり、従来の科学的見地からはとても認められないはずのこの驚愕的 事実を、はっきりと承認するまでに、学問のレベルでもすでに達していることになる。つい最近(2004.3.18)横浜で、『リブライフ』誌を発行してい るトランタン新聞社等の主催で行われた講演会で、医学博士・池川クリニック院長の池川明さんから胎内記憶や出産時の記憶について実際にあることとして語ら れた。日本において、しかも比較的身近でそうした知見が真実のものとして受け止められ、治療に生かされているのを知り、私の気持ちは高揚した。これらの事 実が出産を迎える父母にはもとより、ターミナルケアーやデスエデュケーション、あるいは鬱病患者の治療などにも深く望ましい影響を与えつつある状況に、大 きな喜びを感じた次第である。



神秘学には「受肉」という考え方がある。人格を持つ精神実体が親を自ら選んで胎児の肉体に受肉して来るというのである。このような神秘学の説も、先に述べたような研究や事実に照らして考えると、頭から否定し去ることなどできないことになる。

さらに『前世を記憶する子どもたち』(イアン・スティーヴンソン著)という530ページに及ぶ書には、まさに前生を記憶する子どもたちの調査結果 が詳述されている。著者はルイジアナ州立医学部助教授、ヴァージニア大学医学部精神科主任教授等を経て、同大学に人格研究室を設立した人で、学問的立場か ら厳格に報告事例を分析し、また現地調査をして間違いのない事例のみを扱っており、他の共同研究者と共に承認できた事例のみを取り上げている。そこには実 に興味深い生まれ変わりに関する事例が取り上げられている。細部に渡っては事例の扱い方や一定の結論の導き方に検討の余地を感じるとしても、また、もう少 し突っ込んだ検討を要請したい思いにかられるところもあるにせよ、この種の研究が、研究者も少なく初歩的な段階にあること

を思えば、未熟な部分があるのは当然のことであって、ここで大事にすべきことは、少なくとも学問的見地からみて、生まれ変わりを確認できる疑い得ない実例があるということである。



これまでに述べた事実や諸研究の成果を踏まえるとき、死は肉体の死滅ではあっても、それが即精神的個としての「私」の消滅を意味するものでないの は明らかだ。こうなると、肉体とは別原理で成立している精神的個である「私」が、肉体死滅後にも何らかのあり方で存続していくということを、まったく荒唐 無稽のものと否定してしまうことは、あまりにも事実を無視した非科学的暴論とい言わざるを得ない。



死の恐怖からの解放と、永続する人格・魂の向上への希望



ここで少し角度を変えて論じたい。上述したことを踏まえつつ、偏見に囚われることのないように注意し、公平な立場に立って、あるいは厳格に科学的 な立場に立って考えるとき、死後の精神的個(私の意識)の存続については、少なくとも肯定も否定もできないという結論になるはずである。科学的思考の及ぶ 領域からははみ出している事柄であるからである。



そこで私は次のように考える。私は、科学の領域を超えて自然科学の法則とは異次元の精神的法則(好き嫌い、良い悪い、愛や憎しみ、責任、償い、感 謝など)が支配する領域を認める者である。そういう立場からは、確信を持ってはっきりと提言しなければならない重要なことがらがある。しかしそれはまたの 機会に譲り、本論では、死の直前まで希望を持って人格を向上せつつ生きるための方法を提唱したいと思う。



それは少なくとも次のように考えることである。



科学的立場から言っても、少なくとも精神的個である「私」の死後存続の可能性を否定することはできないということならば、臨死体験や胎内記憶など の事実も考え合わせることで、思い切って「精神的個の死後の存続」を肯定し、その前提に立って生きてみてはどうかということである。実はそれによって、誰 しもが「見えない牢獄につながれた死刑囚である立場」を超える可能性が開かれるからである。



死後も、私(の意識=人格)が消滅せず引き継がれることになると想定すると、まず第一に肉体的死が精神的個にとって恐怖の対象ではなくなってく る。ついで死滅しない人格的私に、昔から仏教などで説かれているこの世の人生はその人の魂を向上させるための道場、修行の場であり、死後は魂だけがあの世 へ行く、という教えを素直に受け止められるようにもなってくる。



先日、「探究の会」例会で久保田さんから報告された稲盛和夫氏の「人は何のために生きるのか」において、“人生の目的は魂を磨くこと”と主張され ているが、まさにその主張を素直に受け止めることが可能になるわけである。魂を磨くことが人生の目的ならば、そして中国明の時代の袁了凡の書いたといわれ る『陰隲録』の中で、雲谷禅師が言うように「善いことを思い、善いことをすればよい結果が生まれ、悪いことを思い、悪いことをすれば悪い結果が生まれると いう因果応報の法則がある」ということであれば、強欲に生きて罪を犯せば、あるいは自己中心の考えから、人を裏切り貶める仕打ちなどをするならば、人生の 目的に反する生き方をしていることになり、因果の法則からその結果を引き継いでいかなければならない。それは死ねばすべ

てはお終いだと考え、自己中心的・打算的に生きてきた者には衝撃であろう。この因果応報の法則は犯罪者数を減らし、自殺者数をも確実に減少させるであろう。自殺をしても一切が終わらないのであるから。



精神世界の法則を真実のこととして受け取ることで、自ずとこの世の生き方が見直されてくるだろう。人格の向上を目指して、精神的手応えのある前向 きの生き方を目指す人が増えてくるにちがいない。それは、弱点ある人間が教壇から倫理や道徳を百万遍説くよりもはるかに優れた教育力を発揮するだろう。

精神的個である私と肉体との関係は、運転手と車にたとえられる。車である身体を運転手の私は自由に操りながら行きたいところに赴く。車の故障が多 くなりポンコツになれば、廃車になるが、もとより運転手も消えるわけではない。いずれは他の新車に乗り換えて走り出すというわけである。この考え方をもと に生きる人には、老化がしのびより病に見舞われるようになっても、この考えを採らない人に比べれば、苦悩のあり様はよほど軽減されたものになるにちがいな い。



足が不自由になったり、視力や聴力が弱ったり、内臓の病魔に冒されるなど身体器官のあちこちが病んでも、脳や神経系が冒されるのでないかぎり、精 神的個の「私」は周囲や社会のことについて、前向きに諸々のことを感じ、考えることができる。考えること自体に未来に向けての意味が付与されるからであ る。



肉体の許すかぎり人様に喜ばれることや必要なことを為し、ついに身体の自由がきかなくなったとしても、言葉で周りの人々の心を和ませたり、生きる力になるような語らいを通じて役立とうと努めることはできる。それは同時にその人の精神的成長を促すことになる。



このように、前向きの気力が殺がれないのは、再三述べているように、自己の一切が消滅してしまうという、現代に支配的な死の観念がもたらす恐れから解放され、死後の先に光を見出しているからだ。

もしこのように考えることで、身の回りの者や社会に迷惑を掛けたり、何らかの弊害や不都合を生むのであれば、この考え方は見直されなければならないだろう。しかし私には、そのような弊害が生じる理由が今のところ見あたらない。 



科学評論家であって神秘学者、芸術家であり教育者、そして建築家・有機農法の創始者でもあったルドルフ・シュタイナーは、彼が築いた壮大な思想体 系である「人智学」において、人間精神(自我=私)が途方もなく高貴な存在へと高まる可能性のあることを、宇宙と世界と人間存在の深い洞察から、人の心胆 を揺さぶらないではおかない手法で述べている。先に述べた肉体的死を超えて継承される精神実態の考え方は、大いなる希望のもとに、このシュタイナーの人智 学へと無理なく導かれるように私には思われる。その意味で、シュタイナーの人智学は、個々の人間と人類に真の希望を抱かしめる思想である、と私には心底よ り思えている。



私は現在還暦を過ぎて、二つの病を持ち、そう先は長くはないと思えている者であるが、だからといって「死」をいたずらに恐怖してはない。むしろ自 己のすべてが消滅するという「死」から解放されて、どんなに衰弱して不自由が身に迫ろうとも、意識を失う直前まで希望をもって、精神の向上に努めながら (それが人生の目的なのだから)、生きていこうと考えている。



このように、私としては、肉体の死を超えて存続する「私」をイメージして生きることが、人様や社会に特別弊害を生むものでない以上、それは万人に勧めたい生きる構えであると思っている。一方、「肉体の死イコール私の終わり」を固執する御仁には、是非その根拠を示すように願って止まない。

「生き方を考える探究の会」の会誌『探究23号』から

巻頭言   物理学が図らずも示す人間存在の尊さ

― 唯物論が人間の尊厳性を危うくしている ―

大阪 隆夫



精神の優位性



いま本屋の新刊本コーナで目を引くものに、世界的な免疫学者で新潟大学大学院医学部教授・安保徹氏の著書『免疫革命』(講談社インターナショナ ル)がある。 本書が説くのは免疫学の最先端からみたホリスティック医学の重要性であり、その立場から、生き方、普段の生活のあり方、あるいは心の持ち方 が病気の根本原因であり、「ガンになったということは、いままでの自分の生き方に強いストレス、ゆがみがあった」「患者はそれ(ゆがみ)を直すことしか病 気根治の道はない」と断言している。したがって対症療法がいかに誤っているかを免疫理論から明快に指摘し、難病とされてきたガンやリューマチあるいはアト ピー性皮膚炎などに対してもホリスティク医学の絶対的有効性を説き、具体的な治療法およびめざましい治療事例を示している。現代医学の最先端に立ちなが ら、ホリスティク医学の必要性をこれほどはっきりと、しかも大胆に唱えた学者があったであろうか。本書は行き詰まっている現代医学と医療の前途に大きな希 望の光をもたらしたと言える。



筆者の関心から言えば、ホリスティク医学の確立は、肉体の仕組みをコントロールする精神の優位性を明確に示すものとして、その意義は極めて大きいと感じている。



一人ひとりに潜むエゴ



ところで、ガンのような死に直結する難病からさえ人類を解放しようとするこの画期的提言が為される時代に、それとは逆行して、生命を羽毛ほどに軽んじる深刻な事態が進行しているのも周知の事実である。



二十一世紀こそ世界平和実現の世紀にとの願いは、二千二年九月十日のニーヨークにおける同時多発テロが一瞬のうちに打ち砕いた。アメリカはテロ撲 滅と称してアフガン戦争からイラク戦争へと戦火を広げたが、かえってそれらの地域でテロは拡大し、反占領勢力との衝突によっておびただしい流血を生み、秩 序は崩壊寸前に陥り、民衆を地獄の縁に追いやっている。頼りにすべき国連もこうした事態にはあまりにも無力に見える。人類の未来に救いはあるのか、希望の 光を見出すことができるのか、これは今日誰しもが抱く疑念ではなかろうか。



ところで、この地獄出現の背景には国益、いや国家エゴに根ざす政治力学が働いていると言われる。さらに私は、この国家エゴに、何らかの形で結びつ いている国民一人ひとりのエゴ(自己本位の欲望)のあることを見落としてはならないと考える。その点を踏まえるとき、抜本的には、一人ひとりに潜むエゴを 真剣に克服する道を求めないかぎり人類の明るい未来は開かれないことになる。



このエゴと連動して、私がぜひ気付き、警戒しなければならないと考えるのは、現代人に蔓延っている「唯物論的思考」のもたらす弊害である。唯物論 的思考は、無意識のうちに人々の心を人間軽視に陥れていく。残念ながらこの思想(思考)は、いまや知識人から一般大衆にいたるまで深く浸透していて今日の 常識のようになっている。それはじわじわと、しかし強力に、人々を無明の闇に陥れる精神的な力となっている。



人間軽視の思想―唯物論の罪―



「唯物論的思考」を徹底すると「所詮人間もモノにすぎない」ということになり、それは無意識のうちに感情や思考の軽視につながり、人間の尊厳性の 否定にまで至る。当代第一級の知識人であり評論家、立花隆氏の言説にもこの「唯物論的思考」が濃厚に見いだされる。最も際だった言説のひとつを紹介する と、彼は利根川進氏との対談をまとめた著書『精神と物質』のなかで、次のように述べている。



二十世紀後半になって、分子生物学が飛躍的な発展を とげ、それまで生命現象として特別視されていたさまざ まの現象が物質レベルで次々と解明 されるようになった。 いずれは生命現象のすべてが、人間の精神現象すら含め て、物質レベルの説明がつくことになるだろうという予測すらある。



と、あたかも生命現象や精神現象をも物質レベルで説明できるかのように述べ、さらに次のように続けている。



「生命はすべて物質」の考えに立つと、生命の誕生は 物質進化の延長上に起きたできごとであり、生命の進化 は、DNAの複製過程で起きた偶然 の事故の集積がもた らしたものとされる。その進化の頂点に立つ人間の精神 世界も、物質の「偶発的な事件の計算しきれないほどの 総和の産物」(J・モ ノー)と解釈される。…(中略)… サルがシェクスピアの作品を偶然にタイプで打ち出すの と同じぐらい、奇跡的に希な確率で生起した事象の積み 重ねの 産物なのだ。(傍点は筆者による)



なんと驚くべきことに、生命や人間の精神を、単なる偶然の、しかも奇跡的にしか生じない小さな確立の、計算しきれないほどの積み重ねからのみ生み出されたものだというのだ。さらにこの数行後に、私にとって考えられないくらい重大で無謀と思える主張を続けている。



人間は意味を求める動物である。だからどうしても人 間存在に特別の意味を置きたがる。生命現象に物理現象 以上の意味を求めたがる。生命現象に神 秘的な未知の領 域がたくさんある間は、そこに特別な意味を求めること は容易だった。しかし、分子生物学が生命現象として一 歩一歩解明していくごとに 生命の神秘は消えていった。 やがて、すべての生命現象が物理現象に還元され、人間 存在には特別の意味は何もないのだということが証明さ れてしまうの かもしれない。



これまた、なんと愚かしい言説であろうか。生命や意識現象が無意味な物理現象以上のものでないとは。無意味な物理現象とは全く次元を異にする有意味の世界が、厳然としてここに存在しているというのに。現に、こうして我々は意味のある世界を生きているではないか。



人間も所詮モノに過ぎないとなれば、品性や奥ゆかしさなどそれこそ取るに足らないことになり、殺人でさえ、その罪を問う本質的根拠をなくすことにな ろう。国益に沿うとあればおびただしい人々の命を奪う戦争も肯定できてしまうという国家の存在に、少なくともその政府やそれを支持する国民の心の内に、す でに人間の尊厳性を根本的なところで見失ている姿をみる。したがってこの唯物論的思考を克服しなければ、本当の意味でお互いを尊敬し合う関係は構築できな いし、人類社会は永久に平和を確立することはできないであろうと考える。 

そこで、ここでは、「唯物論的思考」の誤りを物理学が示す事実から端的に明らかにしてみたい。



物理学が図らずも示す人間の尊厳性



振動制御や科学技術論等の研究家で京都大学名誉教授・佐藤進氏によれば、この世界に生起する現象はすべてエネルギーの流れであり、その流れは無秩 序さの方向に向かっている(エントロピーの増大の法則)。それにもかかわらず、この地球環境において、宇宙の基本法則であるエントロピー増大の法則に反す る生命進化のプロセスが、なぜ何十億年にもわたってありえたのかといえば、これが生命史の最も深い謎であるという。高度に発達した現代物理・科学において も、我々が住んでいる地球環境が秩序ある世界であり、我々の肉体が高度に秩序立てられた生命ある存在であることが最も基本的にして、最も分からない謎であ るという。



そもそも宇宙の生成確率について、数理物学の第一人者・オックスフォード大学教授のR.ペンローズは、私たちの宇宙ができる確率を計算して十の百 二十三乗分の一という数字をえている。これはどんな想像力をかきたてても理解しがたい極微の値である。ちなみにビックバンの起こった確率は、ペンローズに よれば、十の六十乗分の一であり、爆発力が十の六十乗分の一だけ違っていても、現在の宇宙は存在しなかっただろうという。そして、地球上の生命体の場合 は、十の千乗分の一の確率という途方もない確率で発生したことになるという。しかしこれが現実に存在するということからいえば、ビックバンの発生確率をは じめとする想像を絶するおびただしい数の奇蹟の連続が可能ならしめたことになる。
『立花隆の無知蒙昧を衝く 遺伝子問題から宇宙論まで』佐藤進著・二千一年、社会評論社より



これまで見てきたように、宇宙のエントロピーの原則に逆行し自己組織化原理が働いている地球環境と生物の存在、さらには高次の精神世界を有する人 間存在の事実を、物理・科学は、想像を絶する小さな確率、無数の奇跡的偶然の集積の結果生み出されたものと解釈していることを知った。



ところで「たまたま」「偶然」という現象は、本来科学の対象にならないものであって、科学となりうる事象は、再現でき、実験によって検証しうるも のでなければならない。仮説の段階に止まるものとしても、「物質世界の偶発事故の集積」「途方もない小さい偶然の連続的積み重ね」によってしか進化の頂点 に立つ人間存在の必然性を説明しえないのであれば、すでにこの仮説においては科学の立場を失っていることになる。そもそも冷静に考えれば、天文学的数字を 分母に置かなければならないほど希にしか生じない偶然の、その計算しきれないほどの連続的重なりなどは起こりようがないと考えるのが常識であり、そう考え るのがむしろ科学的思考というものであろう。だとすれば、物理学が生み出している仮説は次のようにも言い換えられるのではないか。すなわち私たちが生きて 生活している現実は、物理・科学の法則とは次元を異にする高次で質的なありようをしていると言っているのと同じだと。いや、純粋に物理・科学の立場に立て ば、生命の存在や人間の精神世界の存在は、物理現象を超えた他の極めて絶大かつ精妙な力(作用力)を想定せずしては不可能であると。そのことを無意識のう ちに告げている仮説であるとも受け取ることができるのである。少なくとも先の「無数の偶然の連続による」説明に基づいた物理・科学の見解は、私たちがまさ に物理科学の法則からは生じようのない恐ろしいほどの奇蹟的現実の最中に生きていることを示していることだけは間違いない。



別の次元、別の領域がどのようなものであるのか、現在の私たちは明確に知りえないとしても、意味や目的を内在させた精神的領域を包み込み、私たちの 思考ではお呼びも付かない質の創造力を備えた大いなる何者か(あるいは何らかのパワー)であるに違いない。私たちの精神の発展(成長)がある水準の高まり (高貴なレベル)に達したときはじめて見えてくる、あるいは了解されてくるものであるのかも知れない。



それはともあれ、自己存在が単なるモノに還元されるものではなく、我々を進化へと促す大いなる存在に連なるという思いは、自己や他人存在を限りなく尊く思う思想に結びつけるであろう。我々は一刻も早く唯物論的思考の誤りに気づかなければならない。

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