寄稿文の案内

大阪隆夫氏の寄稿文:死を恐れず、下劣であることを恐れる


  ―良心の覚醒、それは真の自己に気づくこと―

犯罪の増加と良心の稀薄化


詰まるところ自己愛や自己保身から、上は政治家や高級官僚あるいは警察組織のトップ、下は大企業の経営者や警察官や教師まで、平然と嘘偽りを語り、事実を 隠蔽し通そうとし、そして平気で利益をむさぼり、利己的欲望を遂げようとしている。これまでもあった窃盗や傷害や殺人などの犯罪も、手が込んだ巧妙かつ残 忍なものになり、時には、自尊心を傷つけられたというだけの相手に対し、その憎しみを晴らすために殺人までやってのけるという、それも冷酷にかつ残忍な手 法でいともたやすく行われる昨今である。

モラル違反などは社会全体にあふれ、そうした大人社会を当然の如く映し出した、青少年の犯罪の増加と低年齢化の傾向は、ますます顕著になっている。



良心が明らかに摩滅しているかに見える。こうなったのは本質的に、戦後の学校教育に「道徳教育」が欠如してきたからだという最もらしい見解があるが、全く 的を射ていない。一億円のヤミ献金を送った日本医科歯科連名の会長も、そこに居合わせたという野中広務や青木幹雄参議院会長たちも、七〇歳をとうに超えて おり、まさしく戦前の教育をたっぷりと受けてきた連中だ。この一事を見ても、良心の稀薄化あるいはモラル低下が、戦後の道徳教育云々の性でないことは歴然 であろう。





良心の正体、それは自然にわき起こる感情



道徳教育を叫ぶ人たちに、往々に見られるのは良心は外側から植えつけられるもの、注ぎ込まれて形成されるものと思いこんでいる節が濃厚にある。だからその 人達は、どうしても徳目主義や外の価値基準(その時代の国や社会が認めた価値観)を教え込む権威主義的教育に陥りがちとなる。その人達の中にも、良心が 「本来的自己に根ざすもの」とか「生得的なもの」と受け止めようとする努力の感じられるのもある。しかし、みるところ、それに確信が持てていないようなの だ。したがって注入主義と覚醒主義との間に揺れることになる。



一体、人は誰に言われずとも、嘘をつくこと、盗むこと、殺すことがやってはならない悪であることを知っているのではないか。他から教えられて、はじめてそ れらを悪と認識するというものではない。それらをやってはならないというのは、いわば自然にわき起こる感情であり、どのような人にも生まれつきのものとし て(いわば天賦のものとして、平等に)備わっているものではなかろうか。その証拠に、たとえばTBSの番組に、「世界ウルルン滞在記」というのがあり、そ の番組では、たとえば狩猟で暮らしを立てているような少人数の未開民族が登場する。そこに受け入れられた若い日本人との、一週間ほどの短い期間を共に暮ら す記録が紹介されていく。彼ら家族は愛情で結びつき、村人が一定の慣習のもとに協力し合って生きている。素朴ではあるが人間らしい自然な感情がゆたかに交 流され、やって良いことといけないことがきちんとわきまえられている。そこにはもとより学校というものはない。かつてあったといわれる他民族、他部落との 戦は別としても、同一の部落内では殺人や窃盗は言うに及ばず、嘘を付くことさえ許されざることとなっている。卑怯さは激しい侮蔑の対象となり、勇気や思い やりは大いに賞賛される。そして、受け入れた日本の若者に対しても、実に面倒見よく信義に厚いのである。そこには、わが文明国社会に見られるような儀礼的 なものは微塵もなく、心からの心情にあふれているのだ。



人間の実相、真の実在



今ひとつ、良心がどんな人の心にも備わっているということの証となる実例を紹介したい。最近読んだ死刑囚・睦田真志と哲学者・池田晶子氏との往復書簡集 『死を生きる』の中の、その死刑囚の目覚めた生き方、考え方に接し、驚愕すると同時に光を見た。そこにはまさしく、「良心が何であるか」の核心が見事に示 されていると思えたからである。

睦田真志(二十六歳)は、SMの店員でありながらも経営手腕を発揮し、小さな店から大きな店に繁盛させる。しかし経営者には信用されず、人事上の不満も生 じて、経営者に強い憎しみを抱くようになる。少年時代から腕力を元に勝ち負けにこだわって生きてきた性格が禍し、何としても経営者に勝って店を乗っ取るこ とを思い立つ。

そ の際、睦田にとって経営者に勝つとは彼を殺すことであり、それがほとんど犯行の目的とさえなっていった。経営者の協力者も加えた二人を手斧とハンマーとバ タフライナイフで殺害する。ある期間の後、彼に足が付き逮捕される。裁判の結果、死刑が宣告される。その直後から、身勝手にも彼は、「死」への恐怖にさら されるのである。

「死にたくない」が、やはりそれを受け入れねばならない。そうやって過ごしていると、これから死にゆく自分の存在そのものが何のためにあるのか、あったの か分からなくなってくる。この「自分の存在そのものの無意味さ」を受け入れねばならない「辛さ」は、…「その期間が縮められないなら、救われる」魂、精神 は一つもないだろうと思えるのでした。

と記している。それほどの辛さに直面して、彼は独房の中で池田の助言を得つつ深く真摯な思索を開始する。その思索により「自分を見つけそれを求めるということに真の目的を知り、自足することを知って、金銭や自己への妄執から解放される」のである。 

死は不幸なことではない。万人にやってくる必然であ り、本当に不幸なのは、生きている内に自己を考えず、(真の自己を)知らずにただただ、金や良い物や楽しみや、容姿や結婚や社会的名誉…などを自分の幸せ と思って、結局満たされず…真の自分自身(自分の中の真の価値、その真の姿)に気づかないで人生を終わることだ、と思えるのです。

と述べている。さらに  

真 の自分自身、真の自己は他人の内の真の自己に一致する。そう知って、真の自己を愛し、真の自己にとって良いことをする。それによってみんなを愛することを 知る。…本当に「よい」とは誰にとっても、つまり皆にとって普遍的に「よい」ことである。本当に「わるい」は、他人だけでなく、自己にも「悪い」と知れ ば、ほっといても、皆、自分が可愛いのですから悪は起こりえないし、それが自然であると思うのです。

と述べ、こうして彼は、「死を恐れず、下劣であるこ とを恐れる」との心境に至る。「獣としか思えなかった私にも善を求める心があること、あったことがわかり、やっと自分自身を卑下する考えから解放されまし た」と述べている。そしてさらに、「その『善』が在ること、それを求める心が、自分にもあった事実こそ、『神』が存在する、そう信じます。」とも記してい る。また、「私の罪への『罰』があるとするなら、それは私が罪を償うこと以外にはありません。死刑になったとしても、全然私の中では『償えた』とは思えま せん…」と、自分の犯した罪が死刑などでは償えないこと、「善」を行うことによってのみそれは可能になるという自覚にはっきりと至っている。



自己の身勝手な情念と欲望から、二人に非業の死を遂げさせて死刑囚となった睦田真志を、ここまで変えさせたものは何か。外から善の何たるかを説いた結果で はない。彼が思索を通して内面を見つめ、自ら真の自己自身に気づいた結果なのだ。この事実は、悪を恥じ善を行おうとする良心が、どんな悪人の中にも内在し ていることを明確に示している。



良心の教育(良心の覚醒)、それは真の自己に気づかせること



ところで、前掲書の往復書簡の中で池田が、道徳(法律)について述べている下りがある。

素朴に生きている農民とか漁民とかの魂であるのなら、そこに、他の動植物、「自然」すなわち生命への感謝や畏敬が、ないはずがないと思いませんか。人間同 士においては、それは、共感とか慈悲とかいった感情にもなりましょう。殺人がいけないと言う「感情」は、発生論的に、ここに端を発していると思います。そ の自然な感情を人は忘れた(文明の進歩とそれに魅せられて膨張した欲望によって…筆者)。忘れたから、法律もしくは道徳として明言され、人の世を規制する ようになった。



素朴な人間であれば誰でも自然に、「殺人や窃盗はやってはいけない」という感情がわき起こるはずだというのである。現代はその自然な感情を忘れさせる契機 にあまりにも満ちている。それゆえに自己の外側の事象、すなわち肉体に付属する生理的、感覚的欲求や、地位や名声など社会的欲求充足のために振り回され、 なかなか自己の内側にあるはずの真の実在に関心が向かないでいる。自己の実相・真実在を知ることは、現代ではそれくらい難しいのだ。しかし、その中にあっ ても、古代ギリシャのソクラテスが言った、かの「汝自身を知れ」に立ち返り、自己探求に向かうこと以外には生きる手応え、本当の充実感は得られないという のが、落ちるところまで落ちて見出した死刑囚・睦田の真実であった。



ところで、今日の問題として、その忘れかけ、稀薄化 した良心を強化するにはどうしたらよいのであろうか。これはまさしく教育の課題である。そしてその課題に応えられるのは、他でもない子どもの周囲にいる大 人しかいない。まず父と母であり、その他の家族である。ついで大切なのは家庭の外で接する保母や小、中学校の教師である。子どもの心身の望ましい成長を期 待するためには、子どもの周囲にいる大人の振る舞いや思い、あるいは感情のありようが決定的に重要である。そのすべてが子どもに影響していくからだ。大人 がわが身をふりかえって、一刻も早く、睦田が言う意味の真の自己にとって良いことをする生き方に、軌道修正を図ることである。 中学生ぐらいからは、プラ トンの分かりやすい哲学書などを活用し、発達し始めた思考を通して人間の本来的自己に気づかせる教育を施していくことである。その際指導者は、良心が、価 値観の外からの注入により形成されるとする注入主義を改めていることが求められる。その点が曖昧なままであると、ちょっとしたきっかけから、無自覚のまま に権威主義的道徳教育に引き入れられる恐れがあるからだ。それは個々の教師の問題であるばかりでなく、文部科学省の子ども観、教育観の問題でもある。願わ くば文部科学省が、本小論で述べたような見地から、従来の子ども観や教師観を見直し、その上で教師に求められる資質や教育姿勢について明らかにしてもらい たい。それにもとづく教育方針および教育内容の抜本的な改変を願って止まない。



それにしても、人間の考える力(=厳密に論理的で透徹した思考力)がいかに真実に向かう際に力を発揮するものであるかを、睦田の哲学的思索から知った。教 育においても、大人の普段の生活においても、思考力をしっかり鍛えることを重視しなければならないと思われた。睦田の自己に向かう透徹した思考は死をも完 全に乗り越えさせ、誰もが所有するはずの普遍的自己にたどり着いている。彼は死刑が執行される前に、池田晶子氏の支えをバネに、人間がいかにすぐれた可能 性を秘めた存在であるかを示す仕事をした。後世に残る立派な仕事である。彼の存在と本書に巡り合わせてくれた友人に心より感謝したい。

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