大阪隆夫氏の寄稿文:
―シュタイナー思想をベースに考える―
欲望の本質
欲望について考えると、それはこの世を生きるエネルギーであり、それがなければ人は力強く生きていくことができない。
人は食べないと生きていけない。だから食欲を必要とする。眠らないと生きていけない。だから睡眠欲を必要とする。そういう欲がないと人は簡単に死んでしま う。異性を求める気持ちが弱ければ、異性との交渉を義務化でもしないかぎり、種族(人類)を存続できなくなる。なぜなら異性との交渉の必然として子どもが 生まれるが、人間の場合その子どもを一人前に育て上げるには大変な苦労を要するのでそれを拒否するようになるからだ。性欲の強さや快楽の大きさも、いわば 種族の存続を保障しているとも言えるのだ。そのように考えれば欲望はなくてはならないものであって、この世を生きるには欲望そのものを否定することなどで きないことである。
魂および自我の正体と、欲望とのかかわり
しかしこの世を個人がバランスよく生きていくためにも、そして社会を正常に維持していくためにも、個人の欲望を何の制約もなく肯定するわけにはいかない。 何らかの力で欲望をコントロールしていく必要がある。なぜなら、生きていくために絶対的に必要なものとして与えられている欲望ではあるが、他の動物とは 違って人間の場合には、もし制約がなければ度を超えて強くなってしまう傾向があるからだ。
何らかの力でと述べたが、それは精神の力以外にはなく、個々人の精神の力、すなわち私の意志の力で放縦になりかねない欲望をコントロールし抑制しなければ ならない。この精神の力をさらに突き詰めていえば「自我」の力ということができる。動物には「自我」(私=自己意識)がないので欲望の制御はできない。し かしその必要もない。動物は人間のように際限なく欲望を肥大化させ、むさぼることはしないからだ。
そういう道筋でいうと「欲望と生き方」の問題は、いうまでもなく人間のみが有する問題である。人間の自我を前提にしてはじめて語れることなのだ。動物は欲 望衝動にしたがって生きているにすぎない。だから反省的思考が働く余地はなく、それゆえ当然ながら動物には、やったことへの責任を問うことはできないので ある。人間には欲望に距離を置いて対応できる自我、私という自己意識がある。欲望が強すぎるのはよくないという判断は、欲望そのものからは出てこない。欲 望に対する評価や判断は、自我がいったん欲望の外に出て、外から反省的な視点で眺めることによってのみ可能となる。自己の基準にしたがって欲望の満たし方 を、その程度なら良いとか行き過ぎてマズかったとかの判断を下すことになる。欲望の制御を可能にするのはまさにこの自我の働きなのである。
自我とは、別の言い方をすれば「まとまりのある統一体として自らを把握しているもの」(石井登氏による)である。自我は、自己に関わるすべて―過去から現 在までの人生―を掌握する人格の核を為すものといってもよいであろう。しかしこの自我も欲望にのめり込む場合がある。いやシュタイナーによれば、今の人類 の自我が到達しているレベルでは、自我が欲望にのめり込む可能性は高いという。
人間には一人ひとりに内面の世界がある。(もちろん他の動物も、人間と比べれば狭いながら内面世界をもっている。)その世界は様々な思いの行き交う世界で ある。その内的な世界を魂と言うとすれば、そこには様々な情念や表象や思考が一定の関連性を持って川の流れのように流れている。シュタイナーによれば、も しその川の流れに自我がなかったとしたら、動物のように瞬間瞬間の現在が体験されるだけになる。その体験はその瞬間瞬間に消えていく。人間の場合には、そ こに体験の主体である自我があるからこそ、その体験が記憶という形で保存され、過去から今日までの体験を必要に応じて瞬時に思い起こすことができ、すべて の体験に責任を負うことができるのである。(自我と記憶の働きは不可分であって、自我のあるところ必ず記憶力が働いているとされる。)
ところで自我があっても、自我が魂の流れの中にまったく浸り切って生きている状態は、自我が眠りこけて目覚めていないことになり、自我はないに等しい状態 にあるといえる。まさに三歳ころまでの幼児はこの状態にあるのだ。酔っぱらった大人の場合の自我も同様である。三歳を過ぎるあたりから自我は魂から目覚め 始めるとシュタイナーは述べている。確かにそのころからうっすらとした記憶、いわば点的な記憶が持てるようになるという事実がシユタイナーの言説を裏付け ていよう。
シュ タイナーによれば自我は精神世界(超感覚的世界)のものであって、魂の中にある精神的(超感覚的)なものといえば自我以外にはなく、意識の主体はまさにそ の自我だというのである。(自我は高次の精神的次元にまで高まる可能性をもつものとされている。)自我は魂の情念や表象などの流れから抜け出ることによっ て、はじめて自己の魂の全体を見通すことができ、自我本来の反省する力を魂のありように行使できるようになる。しかし現実にはその自我が未発達であり幼稚 であるために情念や表象の流れに深く囚われて埋没し、その流れから抜け出せないでいる場合は実に多いという。
こ のように説明されてくると、人間の魂には自我(超感覚的実体)が存在するのに、社会的地位もあり立派と思われていた人々までが、欲望に引きづられて「良 心」が無いかのように生きている理由がわかる気がする。悲しいことに自我は発達途上で未だ低レベルなために、肉体からの衝動(欲望)やその他の欲求に過剰 に引きづられてしまうのである。未成熟であるがゆえに自我は感覚の愉悦に耽溺したり、所有欲や権力欲に駆り立てられて己を盲目にする。いかなる種類のもの にせよ欲望や激情に身を任せるとき、自我は本来の有り様を見失ってしまうのである。本来欲望は自我(私)がこの世を生きる際のエネルギーとしてあって、だ から大切なのは、そのエネルギーで自我が何をしようとするかということなのである。
この世は自我にとって修行の世界
と ころで人間は様々な欲求をもっている。先に述べたように、まず他の動物ももっている食欲、性欲、睡眠欲など本能的欲求を挙げることができる。ただし人間の 場合には、性欲ひとつ取ってみても、異性への関心は「灰になるまで」とも言われるほど強いもので、人によっては、年老いて体力が衰えても性的関心は旺盛な 人もいるし、性的欲望に沈溺する人すらいると聞く。それくらい本能的欲望から遠ざかって生きることは難しいようなのだ。しかしそういう人は、人間でありな がら動物的次元に止まっているといえ、しかも欲望をむさぼり尽くそうという、いわば動物以下の生き方をしているともいえる。
しかし人間は、本能的欲求(即時的欲求)とは次元を異にする様々な欲求(対自的欲求や実存的欲求)を持つに至っている。文化的欲求や社会的欲求(対自的欲 求)、あるいは愛を媒介にした対人関係に生きたいという欲求(実存的欲求)などである。しかも人間には高次の精神的領域から、それぞれの欲求レベルにおい て理想的な有り様を求めて生きようとする内的衝動をもっている。
そのような人間独自の欲求のあり方を意識するとき、動物レベルの欲望や欲求次元に止まるのではなく、もっと人間らしい欲求を持ち、人間でしか持ち得ない欲求を追求して生きようとするのが本来の生き方といえる。
シユタイナー思想では、この世は自我(私)にとって修行の世界となっている。人生がもたらす喜びや苦悩体験を通して自我は鍛えられて向上し、この世を越え て存続し、まだまだ進化を遂げ高貴なものになっていくという。(シユタイナーによれば、この地球環境も、人間の存在もたまたま偶然に出現したものではな い。)しかし自我が精神世界から語りかける言葉(良心の声)を聞かずに、感覚世界に浸り、感覚的欲望を求めて生きる限りは進化を遂げられないばかりでな く、自我の貧困化、荒廃化は免れないことになる。
自然科学的世界観を克服して希望に生きよ
感 覚の世界だけが真実であると思いこんでいる人たちは、最終的には希望なき世界に陥らざるをえないと考える。感覚の世界のみが真実であるとする視点からは、 この身は自然法則の中で偶然に生まれ、人類の出現も、この地球の存在も、あるいは宇宙の出現でさえ偶然に生じたものにすぎないと思えてしまう。これは現代 の知識人のほとんどが共鳴する見解であるが、そうした世界観の所有者は、必然的に、いずれ死滅するところの自己を意識せざるをえず、加齢が進み、心身の機 能が衰えるにつれて希望を失うこととなり、死期の接近を予感するにつれて彼の心は深い闇にとざされることになる。
そもそもこの世界観に立つ限りは、自己の存在を含むすべての存在に本質的な意味を見出すことはできない。この世界と自己の存在が無目的に偶然こうして出現 したに過ぎないのであれば、せめて生物としての今あるいのちをできるだけ長らえて、生きている間だけでも得ることのできる物心両面の「快」を、できるだけ 多く得ようという考えに至るのはむしろ自然なことである。そうした考えのもとでは人は勢い利己的となり打算的になる。そうなると他人への配慮、あるいは社 会的な迷惑を考慮する行為も、無意識のうちに、生存中の「快」をトータルとして大きくしようとする自己本位の計算が働いていることになる。しかし平穏な日 常生活においてはこの利己的側面は自覚されていず、場合によっては社会的貢献をする側の優れた人物であるという意識のもとに生きている場合さえあるだろ う。そのまやかしが露わになるのは、ひとたび何らかの理由で躓いて窮地に陥いったときである。そうなると何が何でもその窮地から脱出しようとしてあがき、 他人や社会への配慮もかなぐり捨てて、平然と社会を欺き、場合によっては殺人を含む凶悪犯罪をも犯すことになる。そこには「死ねばすべてがお終りなのだ」 という絶望的観念が強力に影響していると思われる。「死ねばすべてがお終りだ」と考える人にとっては、ぎりぎりの所に来ると倫理や道徳はもはや罪を犯す上 での何の歯止めにもならなくなるのである。(それでも、愛する人や自分以上に大事に思う人がいる場合には様相が異なってくる。そこには愛という高次の精神 的要素が介在しているからだ。)
同様にこの世が無目的に生じたとする近代の自然科学的世界観は、今日蔓延する自棄的な気分をも助長する。たとえばガンを宣告されてあと半年のいのちと告げ られた場合などには、半年のいのちを慈しむどころか自殺を図るケースさえ出てくる。自己の消滅が迫っていることに絶望するからであろう。
人に、このような道徳心をかなぐり捨てさせるほど荒廃した生き方をさせたり、いのちを自ら平気で縮めてよいとするはかない人生観を抱かせたりするのは、感 覚的な世界のみが存在のすべてであり、感覚世界の背後に存在する高貴な精神世界に目をやろうとしないところから生じている。もし感覚的世界の背後に物理科 (化)学の法則を越えた精神的世界があるとしたら、あるいはこの感覚的世界もその精神的世界(超感覚的世界)と不可分の関連で存在しているとしたら、そし てそのような世界観の元に人間存在が考えられるとしたなら、人々の生き方にも大きな変化がもたらされるに違いない。精神世界との関わりを気にかけざるをえ なくなるからであり、それは生きる姿勢に質的転換をもたらし、同時に大いなる希望のもとに生きる可能性を予感するようになるからである。
さ て、ここまで述べてきた考え方を頭から否定する人にとっても、またそれなりに了解される人にとっても、気になる問題は次の点ではなかろうか。すなわち感覚 的世界あるいは自然科学的世界以外に、それを包み込み、それを支えながらもそれとは別次元の世界、超感覚的世界があることを厳然とした事実として確信でき る道筋があるかということである。さらに決定的に大事なことは、その道筋を明確な根拠をもって示すことができるのかということであろう。それについては、 シユタイナー思想こそが、まさにその道筋の全貌について科学的思考も包摂しつつ語るものであるといいたい。しかしそれを待つまでもなく、少なくとも人間が もつ主体的な精神的働きの源泉、すなわち本論で述べてきた自我の存在と、その存在ゆえに人間のみがもちうる自由と責任、そして良心、愛、思考力および思考 内容(諸学問、文学、諸芸術、諸科学技術)に注目するなら、これら精神的働きとその所産がすでに自然科学的法則を越え出た現象であるのは誰の目にも明らか であろう。少なくともこの事実が無視されなければ、いやこの事実の重要性をとらわれのない目で正視するなら、超感覚的世界を承認するのはそう難しいことで はないであろう。
さて、もしその様な論拠の上に自分を位置づけることができるなら、向かうべき大きな方向としては、もはや私たちはいたずらに欲望に振り回されることはな く、欲望を人間本来の高貴な目的実現のためのエネルギーとして用いつつ、良心の声に従って、現世を死に至るまで希望を持って生き抜くことのできる道を、少 なくとも、その道が切り開かれる可能性を見出したことになるのである。






