大阪隆夫氏の寄稿文:
「現代高校生の 生活と意識を考える 」 を読んで
ますます期待される学校(教師集団)の役割
はじめに
前号掲載の座談会『現代高校生の意識と生活を考える』は、今日の生徒が置かれている状況を多様な角度から明らかにしているもので、それは今日教師が真に子どもの心をつかみ、教育力を発揮する上には欠かすことのできないメッセージの束のように思われた。
ただ、中には大切な指摘でありながら、座談会の性格上いまひとつ煮詰められないままに他の課題に移ってしまっていたり、関連した内容が別の話題のところで 語られたりしていて、それらをそのままにするのはいささか惜しいように思われた。そこでその点を踏まえつつ、以下に、座談会の内容全体を筆者の視点に添っ て整理し直すことで、その意味するところをより明確に伝えることができればと考え、編集者のご依頼をお引き受けした次第である。
子どもの本質をどう捉えるか
ど の時代の高校生の意識も、それ以前の時代と比べればなにがしか変化してく。変化の度合いは社会状況や家庭環境の変化の程度に応じたものになるのは必然であ ろう。その際重要になるのは、その変化の質をどうとらえるかという点である。生徒を取り巻く状況の変化次第では、子どもの意識が根本から変わってしまうと とらえるのか、それとも、そもそも子どもの本質はどこまでも変わるものではなく、その変化は意識の表層部分に止まるものととらえるのか、によって子どもへ の向き合い方、教育の有り様は大きく異なってくると思われるのである。
その点に関して本座談会では、子どもの常に変わらぬ肯定的側面として、「精神のしなやかさ」や「潜在させている大変なエネルギー」や「成長の芽」をあげている。これは後者のとらえ方であり、
それらはどんな子どもにも内在する「成長し向上しようとする意志」と言い換えることもできるのであって、これこそどの時代にも変わらぬ子どもの本質と言ってよいものではないだろうか。
実はこうした子どもの本質認識・子ども観を、教育に携わる者が揺るがぬものとして持ち続けられるかどうかが、今日のように子どもを取り巻く環境が激しくス ピーディーに、そして好ましからぬ方向で変化する時代には、取り分け強く求められていると言えるのである。また、そのような子ども観に立つことによって、 たとえ個々の子どもの現象面での姿がどのようであろうとも、希望を失うことなく教育に取り組むことができると考える。
私は以上のような認識を起点に据えて、本座談会のメッセージから今日の生徒を見つめ直し、教育のありようを整理してみることにした。
幼稚化を助長するもの
現 代の高校生は幼稚化してきているといわれる。用件を相手にきちんと伝えられなかったり、いろんな行動について小学生高学年のようなリアクションが見られる といった年齢相応の社会性を備えていない子どもが出現している。また基本的生活習慣のできていないのも、この幼稚化現象と無縁ではないと思われる。
幼稚化現象の原因は平均寿命が延びてモラトリアム期間が長くなったということもあろうが、私はもっと本質的には親が子どもの生活のあり方に細やかな気配り をしなくなったことや、基本的生活のあり方を教えなくなってきているところにあるとみている。自分の生活に忙しいため子どもに社会常識を教えるゆとりをも たないか、あるいはゆとりはあっても親が社会的に望ましい姿(常識の備わったふるまい)を見せていないといったことが考えられる。
栄養バランスのとれた食事、良質の睡眠時間、正常な生活リズムの確保は子どもの心身の成長にとって土台を為すものであるが、憂うべきことに最近の親は食事 にあまり手を掛けない傾向にある。添加物を大量に含んだコンビニ食や出来合いの総菜を買って食べさせていたり、お金を持たせて出来合の弁当やパンを買わせ て済ませている。また、勉強と塾に行かせる以外のことにはあまり関心がなく、言葉遣いや礼儀など子どもの振る舞いなどを躾る構えはたいへん弱くなってい る。またゲームやメールに興じて就寝は深夜零時を大幅に過ぎているのにも関知せず、朝は睡眠不足のまま学校に行かせてしまうといったケースも少なくない。 これでは基本的生活習慣が身に付くはずはないのである。
親の生活自体も様変わりしていて、基本的生活習慣からそれたものになっている場合が多い。また高級マンションや高級車を手に入れたり、海外旅行に行くなど 物質的豊かさを追って両親が目一杯働くために、子どもの生活に目が届き兼ねる傾向も出てきている。教育的視点からいえば、少なくとも子どもが中学を終える ぐらいまでは、子どもの生活にきめ細やかな気を配れる状況を確保したいものである。良い生活習慣を身に付けさせるのは親の勤めであり義務である。両親が終 日働き、子どもに僅かな時間しか関われないようであれば、こうした義務を果たすのはすこぶる困難であるのは言うまでもない。
さらに対人関係を結ぶ能力の低下も、幼稚さを示すものの一つに数えることができる。その最大の原因はよく言われてきた少子化や核家族化、それに子どもの家 庭生活の過ごし方にあると考えられる。言うまでもなく少子化や核家族化は家庭生活での子どもの摩擦を減少させ、子どもを過保護に育ててしまう心配がある。 その様な家庭では子どもが対人関係のスキルを身に付けることは難しい。ものわかりのよい大人(親や祖父母)とだけの関わりでは、自分の思いが理解され受け 止められるのが当たり前となり、ひとたび異なる思いを抱く子ども集団の中に入るや否や、折り合ったり妥協することはとても難しく、相手を傷つけたり傷つき やすい自分を見出すことになり兼ねない。
学習塾通いや稽古ごとに大きな時間が費やされ、帰宅後はテレビゲームやインターネットなど室内での一人遊びの時間として費やされるといういわば異常な生活 の姿も、対人関係力を弱くしている原因と考えられる。かつて人間関係を学ばせ、たくましい成長を促した異年齢集団の遊びの場が、今ではないに等しいという のも事態を深刻にしている。これらの状況は子どもにとって実に不幸なことと言わざるをえない。
受験勉強の弊害
他方では、親の一方的な期待や学校体制の中で受験学習を強いられ、自分の夢や希望や理想を抑圧して生きざるをえない状況があり、そのなかでの生き辛さが、 不登校などの不適応を起こさせているという事情がある。子ども自らが学びたくて学んでいないところに根本的な問題があるのであって、向井先生が述べておら れるように「目先の利益追求にしがみつくばかりの、利己主義の権化となった人間の争い」(一部の政治家や、がむしゃらに天下りの場を確保しようとしている 官僚を見るだけで歴然である)を背景に持つ社会の中で、社会的優位性を確保し、物質的豊かさを求めるための手段として有名校を目指させる、そのための受験 学習であり受験体制である。そこでは一生懸命にやればやるほど人間らしい感性は摩耗し、共生、友愛の人間関係はますます希薄となり、本当の意味の学力や教 養(情操)が身に付くことなど期待できなくなっている。受験学習の本質は「現象世界を抽象した内容を暗記する」もので、そのような学習をいくら重ねても、 生きた学力も人間性を高める教養も培われることはないのである。
そ もそも学習(学問)は現実世界に向き合う際に生じた驚きをバネに発達させてきたものである。驚きや感動、あるいは好奇心こそが学習の推進力であって、それ は現実世界との五感をとおしたふれ合い体験の中でのみ生み出されるものである。ところが今日、子どもたちは現実世界とのふれ合い体験(経験)の場を奪われ ており、逆にバーチャル空間で目と耳という五感の一部だけを酷使させるようないびつなゲームやインターネットに身を投じているありさまである。この事態を 放置したままで、また驚きの体験を得させる工夫といった学習の本質に切り込むこともなく、ゆとり教育の時間や総合学習の時間を減らし、学習の時間を増やせ ば学力の強化が図れると単純に考えている文部科学省の大臣には、ほとほと呆れ果ててものも言えない。
学校(教師集団)の役割が大きくなっている
先にふれたように家庭が、必ずしも子どもの心身を育むのにふさわしい場ではなくなっているし、さらには年々悪くなっている社会環境(インターネットや携帯 の普及も含め)が子どもをスポイルしよとしている上に、子どもの学習環境を整えるべき文部科学省が、先に述べたようにまるで信頼の置けない現状にあるのを 踏まえるとき、子どもの置かれている事態はきわめて深刻であると言わざるをえない。この状況をシビアーに受け止めるとき、唯一頼りにできるのはもはや学校 (教師集団)しかないのではなかろうか。子どもを取り囲む否定的現状は、教師集団が持っているはずの教育力をいっそう力強く発揮するように、ますます強く 期待されてきているといえる。
というのも、子どもの幼稚化を押し止めて精神的成長を促すことや、自然とのふれ合い体験の不足を補うことや、さらには保護者に対する家庭での生活リズムを 正させるような働きかけでさえも、学校(自覚した教師集団)がその気になれば相当程度やれるように思えるからである。なにしろ学校は地域のほとんどの子ど もたちを現実に預かっているのであり、それ故教師集団がその気になって力を発揮するなら、それらの子どもとその親とに様々な角度から直接的な影響を及ぼす ことができるはずだからである。
何を為すべきかについては、本座談会がいろいろと示唆に富む提言をしている。
新たな自覚の下になすべきこと
ア、授業について
すなわち教師が新たな自覚のもとにまず取り組まなければならないのは、授業であろう。というのも、子どもたちが授業に積極的に参加しない傾向を示している からである。授業は人類が形成してきた文化遺産を子どもたちに継承する役割とともに、子どもたちの人間性や知性を伸ばす役割をも担うものである。その意味 では授業は教育の根幹を為すものであり、その大事な授業に向かう子どもたちの姿勢に積極さを欠くというのであれば、何をさておいても授業の改善に取り組のは当然の姿である。
言うまでもなく、教材内容の吟味やその提示の仕方、あるいは授業展開の工夫など授業のあり方次第では、子どもの取り組む姿勢に大きな違いが生じてくる。教 材の内容によっては眠っていた子も目を輝かせるし、同じ内容でも授業展開の工夫によっては子どもたちの学習意欲に格段の違いが出てくるのを、教師であれば 誰しも一度ならず経験しているはずである。
し かしよく準備された授業を行うとしても、落ち着いた雰囲気の教室であることは絶対的条件である。落ち着きのない教室ではまともに授業を進めることはできな いからである。教室に決して落ち着きのない雰囲気を醸し出させてはならない。そのためには、授業中の生徒への関わり方、授業中での生徒指導も適切に行われ る必要があるだろう。そうした前提の下に、子どもたちの驚きや好奇心を生かしつつ、興味をかき立てるような授業をつくり出す努力をするのである。
イ、「心の教育」について
また学級指導の時間(ホームルーム)はもとより教科の時間においても、折にふれて生活や世の中のこと、あるいは人生や生き方について、子どもたちの知らな い事実や真実を教師が進んで語り、深く考えさせるのである。たとえば生活に関して、栄養バランスのとれた食事の大切さや、睡眠時間や就眠時を含む望ましい 生活リズムについて語るのである。生き方に関していえば、世の中の浮かれた風潮やそこに潜む危険性などにふれ、慎重に堅実に生きることの大切さに気づかせ たり、人生の可能性や素晴らしい側面について先達の事例や教師自らの体験を交えて語るのである。そうすることで、生徒たちに生きる希望を抱かせ、生きる意 欲を育むことも可能になろう。
今日では、そうした「心の教育」がどうしても必要である。心の教育を充実させることの意義は年々大きくなっている。親の躾や教育があまりに不十分なものになっているからだ。もし学校でそれを補わなければ、いったいどこでそれを補うことができるというのであろうか。
ウ、行事への取り組み
次に大事にしなければならないのは学校行事である。ゆとりの時間も活用し、子どもたちの体験不足を補うのである。
家 庭や地域での人間関係の希薄さを、自然教室や文化祭や体育祭をはじめ様々に工夫された行事に参加させ、その中で役割をもたせることで彼らが級友と協力せざ るをえない状況を作りだすのだ。そこに教師がタイミングよく関わり、必要に応じてあらかじめ立てておいた指導方針の下にアドバイスをしていくのである。
行 事での成功体験はもとより、失敗や、やり方を巡って他のメンバーともめた経験も、いや、その失敗やもめた経験こそがその後の人生の生き方に深い影響を及ぼ す場合は少なくないのであり、対人関係の弱さを克服する契機にさえなることもある。そう考えると、行事に取り組ませることの意義は極めて大きいといえる。
したがって、様々の学校行事が惰性に陥ることなく、前述した視点をも踏まえて、事前に十分に検討され準備されるならば、それが子どもたちに貴重な体験を得 させ、彼らの人格形成にとってプラスの影響を及ぼすのは間違いのないことである。そういう観点からいって、ますます教師集団が総力を挙げて学校行事に取り 組む意義が増しているといえる。
エ、生徒指導について
学校は様々な生徒を抱えている。その中には一筋縄ではいかない子どももいる。教師に対する反抗が強くて指導を受け入れそうにない子どもがいたり、すべてに ルーズで無気力な子どももいる。そうした子どもを担当した教師の苦悩は尋常なものではない。しかしそのとき大事になるのは、本論の冒頭で述べたように、子 どもがどのように常識から外れた姿を見せようとも、それを子どもの本質とは見ないことである。それはあくまでも現象であって、表面の姿の奥には常に変わら ぬ子どもの本質、すなわち「成長し向上しようとする意志」があると見るのである。そのいわば本来の子どもの姿に信頼を置いて、子どもの暴言や不埒な態度に 振り回されないようにしつつ、何処までも子どもの人格を大事にしながら誠意を込めて接していくのである。私の経験では、そうした教師の姿勢が、いつかどこ かで必ず通じるものであることを実感してきている。
たとえそのような子どもへの構えがすぐに成果を現さない場合があっても、そもそも教育は、子どもの可能性を信ずることなしには成立しない仕事であるということを想起し、常にこの原点に立ち返って奮闘し続けたいものである。






